どうも、ティッシュ管理官である。
警察に憧れていたアラフィフおじさんとして、今回は極めて重要な案件を取り上げる。
それが「昭和世代と現代の男のオナニー事情の違い」である。
下ネタと笑うのは簡単である。
だが実際には、ここには時代ごとの生活環境、情報量、技術革新、そして男の悲しい知恵が全部詰まっている。
つまりこれは、立派な社会考察である。
※たぶん
昭和の男は、オナニーに命がけの捜査力を求められていた
まず昭和世代の男たちについて確認したい。
あの時代、今のようにスマホを開いて数秒で好みの動画にたどり着くなどという夢のような環境は存在しなかった。
情報源は雑誌、深夜番組、友人の口コミ、そして偶然見つけたグラビアである。
つまり昭和の男にとって重要だったのは、「何で抜くか」以前に「そもそも何か見つかるか」であった。
これは大きい。
現代の男が検索窓にキーワードを打ち込む感覚とは、そもそものスタート地点が違うのである。
昭和の男は、限られた材料で最大限の成果を出さなければならなかった。
見つかった一枚に全力を注ぎ、記憶を頼りに何度でも戦う。
これはもう娯楽ではない。現場叩き上げの執念である。
家庭環境がすでに厳しすぎた。昭和の男は常に潜入捜査だった
昭和の男がすごいのは、素材不足だけではない。
環境も厳しかった。
自室がない。
鍵がない。
壁が薄い。
親の気配が鋭い。
兄弟姉妹の移動も読めない。
この状況で任務を遂行していたのである。
少しでも廊下がきしめば即警戒態勢。階段の音がすれば緊急撤収。
快感を追いながら周囲の気配を読むこの能力は、もはや少年ではなく特殊捜査員である。
現代の男はイヤホンをつけ、画面を手元に隠して世界に没入できる。
だが昭和の男にはそんな余裕はない。
常に「親が来るかもしれない」という緊張と隣り合わせであった。
あの時代の賢者タイムは、達成感よりも生還の安堵が勝っていたはずである。
隠し場所への執念がすごい。昭和の男はみな証拠隠滅のプロだった
昭和の男たちは、ブツの隠し方にも命をかけていた。
本棚の奥、ベッドの下、押し入れの隅、机の裏、天井近くの死角。
思いつく場所には、だいたい先人の知恵が詰まっていた。
あれは収納術ではない。
諜報活動である。
母親という名の優秀な家宅捜索官は、とにかく強い。
雑に隠した程度では一瞬で見つかる。
そのため昭和の男は、「いかに見つからず、いかに自然に、いかに再回収しやすく隠すか」という高度な技術を磨いていった。
少年時代に培ったこの能力が、その後の人生でどこに活きたのかは不明である。だが、無駄に完成度は高かった。
現代の男は恵まれている。しかし恵まれすぎて迷子になっている
一方、現代の男は圧倒的に恵まれている。
スマホがある。
通信速度が速い。
高画質で見られる。
ジャンルは細分化され、検索もレコメンドも優秀である。
もはやポケットに風俗資料館を入れて歩いているようなものである。
だが、ここで問題が起きる。
選択肢が多すぎるのである。
昭和の男は、限られた手札の中で腹をくくれた。
しかし現代の男は、次から次へと候補が出てくるせいで決めきれない。
おすすめを見て、関連を見て、ランキングを見て、気づけば全然違うジャンルに漂流している。
これはもはや探索ではない。遭難である。
「今日は軽く済ませるか」と思っていたのに、気づけば40分経過。
最も酷使されているのは右手ではなく親指である。
現代男子の敵は、欲望そのものより無限スクロールなのかもしれない。
刺激のインフレが進みすぎた。現代の男は贅沢になりすぎている
昭和の男は、少しの刺激でも十分に動揺した。
深夜番組の一瞬。
雑誌の水着グラビア。
シャンプーCMの妙な色気。
あれだけで心拍数は上がった。
だが現代は違う。
高画質、無限供給、好きな属性を即検索。
刺激が強くて当たり前になっている。
その結果どうなったか。
男は贅沢になった。
無料で膨大な素材が目の前にあるのに、「今日はピンと来ない」と言い出す。
昭和の男が聞いたら机を叩いて怒る案件である。
ない時代には想像力が育ち、ありすぎる時代には決断力が死ぬ。
文明の進歩とは、実に皮肉なものである。
それでも変わらないものがある。男は時代を超えて証拠と戦っている
ここで重要なのは、時代が変わっても男の悩みが完全には消えていないことである。
昭和は物理証拠との戦いだった。
本、切り抜き、ビデオ、雑誌。
現代はデジタル証拠との戦いである。
履歴、通知、サムネイル、ブックマーク、クラウド同期、開きっぱなしのタブ。
敵の形は変わった。
しかし「見つかってはまずい」という本質は変わっていない。
男はいつの時代も、欲望の後始末に神経を使っている。
この習性だけは驚くほど普遍的である。
昭和世代も現代男子も、結局は自分たちの時代が一番大変だと思っている
これも面白い点である。
昭和世代は言う。
「今の若いのは恵まれすぎだ」と。
現代の男は思う。
「昔は逆にシンプルでよかったのでは」と。
だが実際には、どちらもそれぞれの苦労がある。
昭和の男は不足の中で工夫した。
現代の男は過剰の中で迷っている。
苦しみの種類が違うだけで、みんなそれなりに大変なのである。
隣の芝生は青い。
隣の時代のオナニーも、なぜか少し美しく見える。
だが実態はどちらも必死である。
結論。昭和の男は英雄で、現代の男は迷子である
本日の捜査結果をまとめる。
昭和世代の男は、不足した情報と厳しい環境の中で戦った英雄である。
現代の男は、情報過多と選択肢の洪水の中で方向感覚を失った迷子である。
前者は「ない中で何とかした男」、後者は「ありすぎて逆に決められない男」である。
だが共通点もある。
どちらもひとりで頑張っている。
どちらも見つかることを恐れている。
どちらも終わったあと、少しだけ虚無の天井を見る。
この一点において、男の本質は昭和から令和までまったく変わっていない。
文明は進歩した。
装備も変わった。
検索速度も画質も比較にならないほど上がった。
それでも最後にいるのは、部屋の片隅で静かに己と向き合う男ひとりである。
この哀愁こそ、男の歴史そのものなのかもしれない。
ティッシュ管理官として断言する。
時代が変わっても、男のオナニーはいつだって真剣で、少し間抜けで、妙に切ない。
だからこそ、おもしろいのである。


