どうも、ティッシュ管理官である。
警察に憧れていたアラフィフおじさんとして、今回は実にしょうもなく、しかし見過ごせない重要案件について報告したい。
それが「昭和の日本映画は妙に興奮する」という件である。
しかも、ただの映画ではない。
やくざ映画である。
あの頃のやくざ映画には、なぜか高確率で濡れ場シーンがあった。
抗争がある。
殴り込みがある。
裏切りがある。
そして、なぜか濡れ場もある。
今思うと意味が分からない。
だが当時の男にとっては、その“なぜか入っている濡れ場”が非常に重要だったのである。
やくざ映画は男の世界のはずなのに、急に色気を差し込んでくる
昭和のやくざ映画というのは、基本的に男くさい。
煙草、酒、怒号、仁義、裏切り、血の気。
画面の大半はおっさんで埋まっている。
今見返すと、むしろ暑苦しいくらいである。
ところが、そんな男くさい物語の途中で、急に空気が変わる。
場末の旅館。
姐さん風の女。
愛人っぽい女。
組長の女。
あるいは訳ありの未亡人。
そういう女性が出てきて、なぜかしっとりした濡れ場に入る。
この切り替えが実に唐突なのである。
さっきまで拳銃とドスの話をしていたのに、次の場面では布団の気配である。
だが、思春期から青年期の男にとっては、その唐突さすらありがたかった。
むしろ「来たぞ」と思った。
男は勝手なものである。
あの頃の男は、やくざ映画の本筋とは別件で集中していた
物語としては、誰が裏切ったとか、どこの組がどう動くとか、そういうのが大事なのだろう。
だが、若き日の男が本当に集中していたのは別のところである。
「この流れ、濡れ場が来るのではないか」
「この姐さん、妙に色っぽいぞ」
「旅館に二人で入ったな」
「これは一回あるな」
そういう見方である。
完全に本筋から外れている。
だが仕方ない。
当時は刺激が少ない。
男は少ない手掛かりから希望を見出し、全力で食らいついていたのである。
やくざ映画の濡れ場は、なぜか少し物悲しい
ここが実に昭和っぽい。
ただエロいだけではない。
どこか暗い。
どこか切ない。
どこか人生に疲れている。
照明は薄暗い。
部屋は狭い。
煙草の煙が残っている。
女は少し寂しそう。
男は次の日に撃たれそうな顔をしている。
この妙な悲哀がある。
今の若い世代からすれば、「もっと明るく元気にやればいいのでは」と思うかもしれない。
だが違うのである。
昭和の濡れ場には、色気と一緒に哀愁が乗っていた。
それがまた、若い男の妙な想像力を刺激した。
要するに、単に裸が見たいだけではない。
その場の空気にやられていたのである。
いや、もちろん裸も見たかった。
そこは正直に認める。
ティッシュ管理官は事実をねじ曲げない。
全部見せないからこそ、こっちが勝手に盛り上がる
昭和の日本映画、とくにやくざ映画の濡れ場は、今の基準で見ればそこまで露骨ではない。
だが、それで十分だった。
むしろ、そのほうが危ない。
襟元がゆるむ。
肩が見える。
布団に入る。
背中が見える。
あとは暗転。
あるいは、少しだけ絡んで場面が切り替わる。
これがいいのである。
いや、正確に言えば、当時の男にとっては十分すぎた。
全部見せられるより、少しだけ見せてあとは想像に任せる。
この余白に、男はめっぽう弱い。
昭和の映画人は、そのあたりをよく分かっていた気がする。
家族と見ていて濡れ場が来た時の、あの地獄のような気まずさ
ここも避けて通れない。
昭和の日本映画は、家のテレビで流れることも多かった。
つまり、親父も見る。
母親もいる。
兄弟もいる。
そんな中で、やくざ映画の濡れ場が始まる。
あれは本当に地獄である。
しかも、不意打ち気味に来る。
こっちは内心ざわついている。
だが、動揺してはいけない。
男として、家族の前で平静を保たねばならない。
そこで人はどうするか。
急にお茶を飲む。
咳払いをする。
新聞を触る。
意味もなく姿勢を直す。
ひどい時は、テレビから目をそらしすぎて逆に不自然になる。
あれはある意味、公開処刑である。
だが内心では思っている。
「もう少し見たい」と。
このどうしようもない矛盾こそ、昭和の男のリアルである。
昭和の男は、やくざ映画の“ついでの色気”に本気で助けられていた
今なら、見たいものだけを見に行ける。
だが昔は違う。
だからこそ、映画本編の途中に差し込まれる濡れ場には価値があった。
メインディッシュではない。
あくまで本筋の合間に出てくる“ついでの色気”である。
だが、だからこそ燃えた。
予告なく来る。
短い。
すぐ終わる。
しかし、その短さがかえって印象を強くした。
昔の男は、その少ないチャンスに全力だった。
ほんの数十秒の色気に、記憶を総動員して立ち向かっていた。
今思えば少しみじめで、かなり必死で、だがその必死さが妙に愛おしい。
結論。やくざ映画の濡れ場は、昭和の男にとって大事な補給物資だった
ティッシュ管理官として断言する。
昭和のやくざ映画に必ずのように差し込まれていた濡れ場シーンは、単なるサービスではなかった。
あれは当時の男たちにとって、乾いた日常を生き抜くための大事な補給物資だったのである。
本当は仁義だの抗争だのを真面目に見るべきなのだろう。
だが、若き日の男はそんなに立派ではない。
姐さんが出てきたら期待する。
旅館に入ったら身構える。
布団が映ったら集中する。
そういう実にしょうもない生き物だった。
だが、そのしょうもなさの中に、昭和の男の哀愁がある。
刺激が少ないからこそ、ちょっとした色気に全力で反応する。
そのくせ家族の前では必死に平静を装う。
情けない。
しかし、実に人間くさい。
そして少し笑える。
昔の男は、やくざ映画を見ていたのではない。
やくざ映画の中に、なぜか毎回用意されている濡れ場の気配を探していたのである。
それもまた、昭和の立派な鑑賞文化だったのかもしれない。


